「三大英傑と商売繁盛」カテゴリーアーカイブ

ライバルにWIN-WINは通用しない

商売繁盛、と簡単に言うけれど、商売に関わっている人すべて、繁盛させることの大変さを実感していることでしょう。

そんな簡単に繁盛しちゃったら世界中に富が行き渡って世界も平和になるのですが、あいにく、世界は今でもどこかで戦争を繰り広げ、貧困層が生まれています。

商売のコツはWIN-WIN、つまり売る側と買う側、両方が得をしたと感じることが大切、などと解く妖しいカタカナの肩書を持つ人が言ったりしますが、それってどうなんでしょう?

それは製造者や販売者と消費者の関係であり、製造者や販売者には当然ライバルがいるわけで、そのライバルには勝たなければなりません。

消費者とWIN-WINの関係を結んでいれば必ずライバルにも勝てるなんて甘いもんじゃないことはご存じの通り。 続きを読む ライバルにWIN-WINは通用しない

教育から消えた「士農工商」の身分制度

ところで商売は儲けを出さなければいけません。

とくに昭和生まれの人は儲けることに抵抗感を覚える人がいるので、考えを改めましょう。

1980年代頃に小学生を経験した人は歴史の授業で「士農工商」という身分制度が江戸時代にあった、と教わっているはず。

現在、小学校の歴史の教科書に「士農工商」という言葉は出てきません。

また、この身分制度を打ち消す意味となる「四民平等」という言葉もありません。

1990年代、近世史の研究が進むと士農工商は四民の業であり、身分制度ではないということが明らかになりました。 続きを読む 教育から消えた「士農工商」の身分制度

日本に統一貨幣が存在しなかった時代

戦国時代、お金持ちの商人は身分うんぬんよりも強い部分を持っていました。

鎌倉時代以降、日本では統一された貨幣制度がなく、各大名領地によって通貨が決まっていた頃がありました。

今から考えると不便のように思えますが、確かに敵対する領地と同じ通貨である必要はなく、占領した領地を占領側の通貨にしてしまえばいいだけのことです。

それに通貨がバラバラであるほど、希少価値、必要な物の価値基準が統一されます。

それは今の時代でも同じ。 続きを読む 日本に統一貨幣が存在しなかった時代

織田信長、堺に二万貫の矢銭徴用を命ずる

戦国時代、商人の財力は強く、まだ中央集権ではなかったことから堺のように栄えた経済特区も生まれていました。

大名からすれば商人の財力は矢銭調達の重要な財源となるので徴用の対象になります。

とはいえ、諸国大名が商人に矢銭をせびったところで商人が笑顔で金を貸してくれるわけではありません。

戦国時代を見ると、商人と諸国大名にはさまざまな確執が見られます。

たとえば織田信長が最初に施行した楽市・楽座は既得権や不入権を持つ特権的な商工者を排除する目的で作られた自由取引市場であり、大名の絶対的領主権の確立を目指すものでした。 続きを読む 織田信長、堺に二万貫の矢銭徴用を命ずる

織田信長の兵農分離

商売を繁盛させるために目先を利かせることは何より大切ですが、先立つものがなければ始まりません。

かといって成功者の誰もが最初から先立つものを持っているわけではありません。

織田信長にしても織田信秀の嫡男でこそあったけれど織田家の本家ではなく、庶流の出、本来ならば戦国の武将というよりも地方の官職程度の家柄でしかなく、天下布武など夢のまた夢、的な立場に過ぎませんでした。

織田信長は文字通り兄弟縁者と骨肉の争いを繰り広げた挙句、ようやく織田家当主になりましたが、当時の織田家情勢は家督相続で騒動を繰り広げていたために周囲の大名から領地を狙われているといった状態です。 続きを読む 織田信長の兵農分離

兵農分離は専門的プロの集団

織田信長は短期間で天下の統一を目前まで完成させましたが、短期間で地方大名の庶家から台頭してきた要因のひとつは合戦の勝ち数にあります。

戦国時代、合戦勝ち数のもっとも多い大名は豊臣秀吉の84勝、次いで織田信長の59勝です。

豊臣秀吉の勝ち数が多いのは後述しますが、やはり群雄割拠の中で頭ひとつ抜きん出た存在といえるでしょう。

勝ち数を多くできたのは、どの大名よりも早く兵農分離を行ったことも関わっています。

農家の長男を徴用するのではなく次男や三男を徴用、農業に従事させず専業兵士として育てました。 続きを読む 兵農分離は専門的プロの集団

冷徹人事で自分を滅ぼした信長

結局、織田信長は天下統一を目前にして本能寺で焼き討ちに合い、自害してしまい夢は潰えてしまいますが、やはりこれも烈火の性格を持つ信長ならでは、の結末といえるでしょう。

この結末にも商売に関わる大切な要素が絡んでいます。

本能寺を焼き討ちしたのは信長の重臣のひとり、明智光秀。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の毛利征伐支援のために出陣する途中、京都に入った段階でいきなり「敵は本能寺にあり!」と指揮、同じく毛利征伐支援のために本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃した話はあまりにも有名ですね。

ただし、なぜ明智光秀が主君の織田信長に対して謀反を翻したのかは未だ、分かっていません。 続きを読む 冷徹人事で自分を滅ぼした信長

火中の栗を拾った木下藤吉郎

戦国時代の武将でもっとも合戦の勝ち数を上げているのは豊臣秀吉ですが、じつは勝率でもトップを取っています。

戦歴84勝8敗7分けですから、8割5分2厘という好成績。

とくに信長なき後は朝鮮出兵まで負け知らずの連勝を続け、その中には北条氏を追放した小田原征伐も含まれています。

大量の物資と人材を投入、相手を威圧して勝つ戦法は「戦わずして勝つ」と明言を残し、水攻めや兵糧攻めによる戦法こそ秀吉の真骨頂と取られがちですが、「戦わずして勝つ」以前はむしろ、激戦の最中、火中の栗を拾うがごとく、危険で勝利の確率が低い合戦に進んで身を投じていました。

その代表的な例が金ケ崎の戦いでしょう。 続きを読む 火中の栗を拾った木下藤吉郎

家康を懐柔した非情のネゴシエーション

明智光秀なき後、柴田勝家と覇権争いに勝った豊臣秀吉はついに信長の悲願だった天下統一を果たしますが、そこには合戦よりもネゴシエーションの巧みさが役立っています。

たとえば信長の後継者を決める清洲会議では、柴田勝家が信長の三男、信孝を推薦したことに対して秀吉は信長の孫である三法師を擁立、秀吉は財力とネゴシエーションで三法師を後継者とし、信孝を後継人とする策を講じます。

その後、秀吉は柴田勝家の息子である勝豊を攻めて信孝を孤立させ、三法師を奪うと当主代理の立場を確保、それを利用して今度は柴田勝家と信孝に攻勢をかけて滅ぼしてしまいます。

権力の座を射止めるための見事な戦略です。 続きを読む 家康を懐柔した非情のネゴシエーション